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小県蚕業学校同窓会『三吉米熊先生』
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三吉米熊(『校基50年記念アルバム』上田東高校同窓会蔵 より)
三吉米熊は、昭和2年9月1日、現職の校長まま亡くなった。68歳だった。死を悼む人々の葬列は市内に延々と続いたという。
『三吉米熊先生』は、三吉米熊の伝記、昭和5年3月に東京の明文堂から出版された。奥付の著作者は長野県小県蚕業学校同窓会となっているが、筆を執ったのは、同窓生の尾崎章一と猪坂直一、前編の誕生から小県蚕業学校の開校までを尾崎が、後編の開校からそのその死までを猪坂が担当し、序文は当時の同窓会長・第二代校長の清水洌が書き、また蚕糸専門学校学長の針塚長太郎が三吉を偲ぶ文章を寄せている。
ときの校長清水洌は、その序文に次のように記した。
「小県蚕業学校は、三吉博士の終始せられた学校であった。創立以来三十有余年、孜々として倦むことなく、営々として怠ることなく、或は子弟教養のために、或は地方蚕業啓発のために、尽瘁された三吉先生の功績は、何と言っても、滅し去ることはできない。
三吉先生は至誠の人であった。質実の士であった。不言実行の人であり、温情寛容の人であった、二千数百の卒業生は今に先生を慕っている。今に先生の徳を頒っている。偉なる哉、先生の訓化。大なる哉、先生の徳望。(後略)」
筆者のひとり尾崎は、序に「書き終わって、先生の平凡の偉大さがしみじみと感じられる」といい、猪坂直一も、執筆の感想を次のように記している。
「先生の偉さは、その平凡の裡にあったようである。徹底したる平凡、否、実は、平凡と見ゆる偉大、それが先生の真面目であろう。そこに何人も企て及び難い人格の光があった。それは先生の事蹟を調べるに従って、愈々、倍々、私に分ってきたのである。」
三吉米熊の生涯の事実を軸にして、歴史や社会、学校や地域の姿、生徒や米熊一家を通して、米熊自身の人柄にまで親しく接することができる、第一級の資料。20頁を超える詳細な年譜が巻末にまとめらている。
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