蚕都上田アーカイブ・・・・・・120年前の講義が甦る、小県蚕業学校長 三吉米熊講義『外国養蚕術』他『蚕体生理学』『蚕体病理学』『桑樹栽培法』他

yonekuma

三吉米熊・時代と思想

 三吉米熊は,万延元(1860)年,長州豊浦(山口県下関市長府)に生まれた。父は三吉慎蔵,槍の慎蔵として名高く,土佐藩の坂本竜馬とともに京の寺田屋事件に遭遇し辛くも一命をとりとめた。後年、米熊は幼時を述懐して「坂本さんがよく裏から忍んで来て蔵の中で父と二人きりで,終日語り明かした事があったが,その蔵には何人でも寄せ付けなかった。従って父と坂本さんとの間にどんな話があったか誰も知るものがなかった,しかし母だけは時々一升徳利を携えて蔵の中に入る姿を見かけたものだ」(『三吉米熊先生』(15頁)と語っている。

 維新後,北白川宮家に仕えた父慎蔵は,家族を東京に呼んで,東京の芝に家を構えた。米熊は,英学塾から工業小学校、さらに近藤真琴塾(後の攻玉社)に移り測量,算術,英学を修めた。次いで明治十一年には設立間もない駒場の勧業局農学校(後の農科大学,現東大農学部)へ入学した。

 明治14年11月、長野県勧業課農務掛として県庁に赴任し、県下各地を回り養蚕の指導に当った。学問に裏付けられた指導は評判をよんで、やがて三吉を講師として県下各地で講習会が開催されることとなった。講習内容は,学科は蚕体生理,蚕体病理など、実技として顕微鏡使用法,蚕種検査法が教授された。

 わが国の近代的な蚕糸業は発展の緒についたばかりであった。明治14年農商務省が設置され、17年には蚕病試験場(後の蚕業試験場)が設置され、22年には蚕種検査規則が制定された。

 その後,明治22年から24年まで農商務省の委嘱でイタリア・フランスを視察し、帰国後の明治25年小県蚕業学校長に就任した。中央での仕官栄達の道にはつかず、終生長野県を離れず,蚕業学校校長として、蚕業の振興と教育の発展のために生涯を捧げた。

 三吉のモットーは、「学理の要は勧業,実業の根本には学理がなければならない」であった。学問・教育・実業の三つは、蚕糸業において、明治の殖産興業と信州の開発、人びとの生活向上という目標と直接に結びついていた。






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