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三吉米熊著『通俗養蚕講話』明治41年5月 明文堂(東京)
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三吉米熊の人となりを、米熊自身の書いたものの中に見つけるのは難しいが、この書には例外的に、米熊自身の感情や信念、思想が率直に語られている。
「蚕はもと野生の虫である。それが家屋の中に住居するといふのは不思議なことではあるまいか。…
蚕の心中は元より解らない。然し,仮に蚕が人間の仕打ちを難有迷惑に思って居るとしたらばどうであるか。籠の小鳥は居ながら結構な餌食を頂戴するよりは,何を食はずともあの青空へ,思ふさま羽をのして飛び翔って見たいと思ふに相違ない。蚕にそれまでの考えはなくとも,場合によっては,イヤに監禁する位の感情は浮ぶか知れない。さういふ意味からいふと蚕室は全く蚕の牢屋である。223-224p」
「蟻量一匁の頭数は約一万頭である。此内,ざっと一割は五齢までに斃れるものと見て差支へない。そこで又残りの九十前後の中から再び一割位のソツが出る。残りは八千位になるといふのは,勢い免れないところであらうと思ふ。吾輩が所謂上結果といふものは,これだけの蚕を殺す事で,またこれ以上の蚕を殺さぬ事である。吾輩如何に美しい理想を好むとしても差当たりこれ位の成績以上を目安にする事は出来ぬ。113-114p」
「蚕に美しい繭を結ばせたい為に,吾輩は桑を撰ぶ,或は飼方に手加減を用ゐる。よい加減に見計ひをつけて桑の中から引き上げて,簇の世界へ移す。こんな事は其実一々蚕の身にとって有難い事とは限らない。養蚕の巧者な者は中の蛹をを小さくして繭に目方をもたせる工夫さへする。つまり体を殺いで巣の方を善くさせられるのだから,蚕にとって余り嬉しい事ではないに相違ない。
こんな事を言ひ始めると切りがない。…ただ,こういふ風に自分の都合のみを計って,蚕の方は一向に構ひなしといふ事になって来ると,以ての外の間違ひを起すのを心配するのである。175-176p」
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