蚕都上田アーカイブ・・・・・・120年前の講義が甦る、小県蚕業学校長 三吉米熊講義『外国養蚕術』他『蚕体生理学』『蚕体病理学』『桑樹栽培法』他

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街道

近世の街道(国土地理院20万分の1地勢図から作成、青い太線の街道はおおよその経路を示している
 江戸時代の交通には、様々な制約があった。街道に設けられた関所、関所の通行税、また宿駅の利用にも各種の条件や制約がある。
 運賃も安く荷痛みの少ない道を荷主は選びたいが、それは、幕府、領主、関所、村役人等々の力関係次第。交通量が増え、力関係が変化すると、次第に、いわゆる裏街道・脇街道が発達する。須坂から仁礼、大笹を通る大笹街道(仁礼街道)、また松代や上田から大笹、大戸、高崎への道はそのようにして発達した。中仙道や北国街道の裏街道として活用されたこの道は、また、地元の人びとの生活道路、物資輸送路としても賑わった。

鉄道

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旧信越本線の碓氷第三アーチ
 明治25年12月竣工、イギリス人技師パゥネルと日本の古川晴一の設計。200万個のレンガが用いられたという。1000分の66.7という急勾配のためドイツのアプト式を採用して線路は敷かれた。アーチの高さも廃止された構造物の中では最大。今も往時を偲ぶ威容を誇っている。26のトンネルと18の橋梁の大工事によって横川軽井沢間をつないでいる。

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信越線の開通と大屋駅
 信越線は、明治17年5月に上野高崎間が開通した。次いで高崎横川(18年10月)、直江津関山(19.8)、関山上田(21.8)、上田軽井沢(21.12)、最後に軽井沢横川が26年4月に開通して、全線が結ばれることになった。人びとにとって、鉄道は「文明の最貴最重の大利器」「生存競争を促進する機械」「効用は一人ひとりの運用の妙」(上田郷友会月報)と言わしめる大事であった。
 その「運用の妙」を生かすべく、物資運搬の利便性を求めて南信の人びとをも巻き込んで、県当局や小県郡会の力によって明治29年には大屋駅が開業した。これを示す記念碑を今も大屋駅に見ることができる。明治28年版長野県統計書(明治30年刊行)によれば、大屋、上田駅の発着荷物はそれぞれ、発54,3617トン、着1137,31942トン、同様に翌年は、2268,8271トン、11887,50623トンに増加している。
 のちに、大屋駅を中間駅として、上田から丸子まで上田丸子電鉄が敷設され、大屋駅の重要性は一層大きくなった。

輸送

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人の移動

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