蚕都上田アーカイブ・・・・・・120年前の講義が甦る、小県蚕業学校長 三吉米熊講義『外国養蚕術』他『蚕体生理学』『蚕体病理学』『桑樹栽培法』他

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上田城跡公園

上田城

太鼓門
東西の櫓
南櫓

城の濠

藩主屋敷跡現上田高校

濠


享保年間上田

 小県地方を配下に収めた真田昌幸(1547-1611)は、天正11年(1583)に上田城を築くとともに城下町をつくりました。
 海野氏の本拠(現東御市)から商人や職人を移住させて海野町を造り、その周囲には寺社を配置しました。
 
 慶長五年、関ヶ原戦後昌幸と幸村は和歌山県の 九度山に蟄居を命ぜられ、上田は昌幸の長男真田信之(1566-1658)の所領となりました。信之は、破壊された上田城にかわって藩主屋敷(現上田高校)に政庁を置き、また真田氏の居館のあった原之郷から商人職人を移住させて、原町をつくりました。鍛冶町、紺屋町などは信之の時代につくられたのです。

 同時に、信之は戦乱で荒れはてた農村復興のために農民の定着を図り、近世城下町としての上田の基礎を築くとともに、家臣団を沼田、名胡桃、矢沢上田など重要な地に配し、領内の安定を図り、上州北西部から信州上田にかけての領地を支配したのでした。

上田市立博物館と山本鼎記念館

上田市立博物館
上田市立博物館
博物館は昭和4年上田城の櫓を利用し徴古館として開設されました。現在の建物は昭和40年6月の建設。博物館ホームページ

山本鼎記念館

山本鼎記念館
 大正8年、上田の神川村(現上田市)神川小学校で、画家山本鼎や金井正が中心になって児童自由画展が開催されまし。大正デモクラシーの時代、これを契機に自由画教育運動が神川村から始まったのです。
 また、山本鼎は、創作版画協会の設立や、農民美術練習所の設置など、芸術を多様な形で広く人々に普及する運動に取り組んだのでした。創作版画は、版画制作に新しいスタイルをもたらし、農民美術はこの地に根づいて多くの作品を生んでいます。
 その業績を記念して、1962年博物館の隣に山本鼎記念館が建てられ、近年、この記念館が中心になって、全国版画大賞展が上田市で開かれています。山本鼎記念館ホームページ

上田公園の銅像

三吉米熊 蚕業教育の第一人者

三吉米熊

 同窓会が設置した碑の前面の説明板は次のように書いています。
小県蚕業学校初代校長 三吉米熊胸像
 米熊は長門国長府藩士三吉慎蔵の長男として、万延元年(1860)山口県下関市に生まれた。成人し上京後、駒場農学校(現東大農学部)を卒業。同郷出身者の薦めがあって長野県の職員となる。その後蚕業事情視察のため渡欧し、二年間養蚕技術を習得帰国後、明治二十五年日本で最初の蚕業教育の学校である小県蚕業学校(現上田東高等学校)の初代校長に就任。また、明治四十三年開校の上田蚕糸専門学校(現信州大学繊維学部)の創立委員と教授を兼ねた。昭和二年逝去するまで実に三十六年間蚕業教育に情熱を傾けた。当時の日本経済を支えた蚕糸業に寄与した功績は計り知れない。(以下略)

山極勝三郎 世界最初の人工癌発生に成功

山極勝三郎
山極勝三郎

山極勝三郎1863ー1930 
 明治11年上田変則中学校 明治12年東京外国語学校 明治13年東京大学医学部予科、明治17年本科入学。21年に卒業し、そのまま病理学教室の助手として勤務。24年助教授、28年教授と進み、大正12年退職して名誉教授となっても教室に出て、亡くなるまで研究を続けた。ドイツ留学の3年間(明治24-27年)を除けば、大学での教育と研究に注がれた生涯でした。 
 ドイツではツベルクリンの研究を行い、次いでベルリン大学で病理学を研究しました。帰国後は胃癌、肝臓癌の研究から、当時世界的な研究課題であった人工的な発癌の実験に取り組みました。明治40年頃から始められた、ウサギの耳にコールタールを塗り続けるという実験を繰り返し、大正4年、実験は成功したのです。そのときの感激は、「癌出来つ意気昂然と一歩二歩」という句に詠まれています(銅像台座)。
 山極勝三郎の研究成果は、世界的に高い評価を受け、ノーベル賞の候補にもあがったようですが、当時の国際情勢から受賞には至らなかったようです。
 また、山極勝三郎は同郷の小河滋次郎勝俣英吉郎とともに「上田郷友会」をつくり、機関誌『上田郷友会月報』を発行しています。山極が書いた第一号の「緒言」には、「我國ヲシテ歐米各國ヲ凌駕セシメント欲スルモノハ須ク文學技藝農工商ノ進歩ヲ謀ラサル可カラス」、「一國ノ隆盛ヲ企圖スルモノハ先ツ郡邑ヨリ始ム可シ然ラハ即チ終ニ一國ノ隆盛ヲ結果ス可キハ見易キノ理ナリ」とある。郡邑は上田小県、出郷の若者たちの意気込みガ感じられる文章です。(倉持史朗「小河茂次郎と『上田郷友会月報』-一地方機関誌にみる足跡-」より)

小河滋次郎 非行少年の「感化教育」に先進的に取組んだ法学者にして司法官僚

小河滋次郎

 小河滋次郎(1864-1925)(上田人物伝より
 上田藩医金子宗元の次男に生まる。東京大学法学部別科法学科等を経て、1886年内務省に入賞。1895年の第5回万国監獄会議(パリ)をはじめとして、欧州での会議参加や留学によって、わが国における監獄改良と、少年非行に対しての感化教育の必要性を説き、その先駆的役割を果たしました。
 彼は、司法省の官僚として各地の監獄署長を歴任し、感化法制定や1908年の監獄法制定などに尽力しましたが、その根本的な制度改革には司法省内の支持が得られず、監獄顧問として赴任した清国からの帰国後退官のやむなきにいたりました。退官後は、大阪で救済事業研究会を創立し、方面委員制度(現在の民生委員)を発足させるなど社会事業の方面で活躍しました。政府の少年法制定の際には、その秘密主義を批判すると同時に、『非少年法案論』(1920)等の論文著作によって、感化教育推進の立場を主張し続けました。そのなかで彼は次のように述べています。
 「(少年を)教育の対象として行ふ所の感化事業は、徹頭徹尾、少年個人の利益保護を計るに専らならんことを努むるに反し、処分の目的物として少年を扱はんとする立場より施す所の感化事業は、その本位とする所、公共の利益保全にあって、少年の利益保全は従位である、否ある場合には、公共の利益のために、個人的利益の総てを犠牲に供することにもならざるを得ぬ。少年個人の利益保全の為に教養保護を行ふの結果として、自然に公共的利益をもより確実に保全し得ることになるのは勿論であるが、然もこれは副産物たるに過ぎずして、敢えて当初から之が収穫を予期して行ふわけではないのである。」
 

勝俣英吉郎 上田市第2代市長

勝俣英吉郎
勝俣英吉郎

勝俣英吉郎(1865-1930、慶応元年〜昭和5年)。
明治12年東京外国語学校、16年東京大学医学別科、21年父を継いで上田で開業。明治42年県会議員。のち市会議員から大正12年市会議長、13年第2代市長となるも、任期中の昭和5年沒。
 市長時代の功績は高く評価され、その業績を顕彰するために上田城跡公園に銅像が設置されています。
 勝俣市政の主たる事業としては、大正13年市内道路花園線の新設、丸子鉄道の開通、上田高等女学校専攻科設立、城下校体操場建設、上田警察署移転新築、住吉町の建設、昭和2年上田公園拡張、上田電話分室新設、上田刑務所移転、上田温泉電車北東線開通、市営運動場完成、小学北校新設、上田神社昇格、上田機関分庫設置、市営屠場計画、上田市中央道路完成、昭和4年児童遊園地完成、上田徴古館設置、上田市立図書館の充実、蚕業取締支所移転新築、染織講習所拡張、中学校学級増加、上田水道改善、市史編纂着手、汚物棄却場新設等々が挙げられています。(『上田市史』(下)より)
写真は、銅像とその周囲、写真の奥に市営野球場、野球場の北側に陸上競技場があります。現在の上田公園は勝俣市政の時代にその形を整えられたのでした。

赤松小三郎記念碑

赤松小三郎記念碑

 赤松小三郎は、天保2(1831)年に芦田堪兵衛の二男として木町で生れました。嘉永元(1848)年、18歳で江戸に出て勝海舟に数学・測量・天文・蘭学や洋式砲術などを学び、同7年には上田藩士赤松弘の養子となり、小三郎と改名しました。
  小三郎は、語学にも秀でていて、慶応2(1866)年に『英国歩兵練法』(上田市立博物館蔵)を和訳し、日本の兵制の基礎確立に貢献しました。また、京都 で英式兵学塾を開いていたとき、薩摩藩から講師として迎えられましたが、小三郎に教えを受けた者其数凡八百有余人(上田市史)、なかに後の帝国海軍司令官・東郷平八郎らがいました。
 しかし、慶応3年9月3日、京都から帰る途中、幕府の協力者と疑われ、待ち伏せていた薩摩藩士桐野利秋らに襲われ亡くなりました。享年37歳でした。(上田人物伝より
小三郎の活動は、兵学、洋学に留まるものではなく、慶応3年5月には、越前福井藩主松平春嶽に国会創設の建白書を提出しています。これは同様の趣旨で坂本竜馬が提起した「船中八策」に先立っており、小三郎の先進性を広く世に伝えるものでした。
 建白書は「御改正之一二端奉申上候口上書」の標題で、7項目、項目名のみ挙げれば次のようになっています。
一 天孫御合體諸藩一和御國體相立根本は、先づ天朝之権を増し徳を奉備、並に公平に國事を議し、國中に實に可被行命令を下して、少しも背く事能はざるの局を御開立相成候事。
一 人才教育之儀、御國是相立候基本に御座候事
一 國中の人民平等に御撫育相成、人々其性に準じ、充分力を盡させ候事
一 是迄の通、用金銀總て御改、萬國普通の錢貨御通用相成、國中の人口と、物品と錢貨と平均を得候様、御算定之事
一 海陸軍御兵備之儀は、治世と亂世との法を別ち、國の貧富に應じて御算定の事。
一 舟艦並に大小銃、其外兵器或は常用之諸品衣食等製造の機關、初は外國より御取寄せ、國中に是に依て物品に不足無き様御所置之事
一 良質の人馬及鳥獣の種類御殖養之事 (『上田市史』下)
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