蚕都上田アーカイブ・・・・・・120年前の講義が甦る、小県蚕業学校長 三吉米熊講義『外国養蚕術』他『蚕体生理学』『蚕体病理学』『桑樹栽培法』他

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小県蚕業学校(現上田東高校)は、明治25年郡立蚕業学校として設立、明治33年に県立に移管。わが国蚕業教育の先駆として、教育と研究(小県蚕業学校事蹟報告(第1回~第25回))に大きく貢献し全国に人材を輩出しました

小県蚕業学校略史

昭和6年小県蚕業学校

小県蚕業学校全景(昭和16年)『校基50年記念帖』より
下は蚕業学校発祥の地記念

小県蚕業学校発祥の地

明治 25.4.1 小県蚕業学校設立認可、本科、別科を置く
25.5.10 上田町丸堀で開校
28.4.1 上田町新参町旧小県高等小学校跡に移転
33.11.10 上田町常入権現坂上に校舎を新築移転
33.4.1 甲種に昇格し、34.4.1 県立に移管、長野県立甲種小県蚕業学校と改称
大正 5.4.1  創立25周年記念並に三吉校長銅像除幕式挙行
11.4.1  入学資格修業年限変更、本科第一部、第二部設置、長野県小県蚕業学校と改称
12.10.1 上田市大学常入290番地(現在地)へ移転
昭和7.6.5  校歌制定、土井晩翠作詞 岡野貞一作曲
10.3.1 専修科(旧別科)生徒募集中止
16.5.10 創立50周年記念式を挙行
19.12.9 戦災により本館建物外10棟延べ1,093坪を焼失
20.4.1 林業科設置
21.4.1 長野県上田農業学校と改称
22.4.1 同併設中学校設置
23.4.1 本館新築、学制改革により長野県小県蚕業高等学校設置、農業・林業・蚕業科を置く。定時制課程を本校に置き、中心校の外、塩田・青木・浦里・泉田・傍陽の5分校を設置
24.4.1 教育課程改正により農業科・林業科・蚕業科を農業課程・林業課程・蚕業課程とし、定時制には農業課程及び農林家庭課程を置く。
25.3.31 併設中学廃止
28.2.15 昭和29年度より定時制農林家庭科を廃し、家庭課程に改む
32.3.31 泉田分校統合廃止
35.3.31 青木分校廃止
35.4.1 農業課程を1学級とし普通課程2学級を設置
35.5.18 体育館新築
35.7.12 火災により校舎附属建物全半焼延べ1,237.12坪焼失
37.4.1 校名変更、長野県上田東高等学校となる
38.4.1 蚕業科生徒募集停止、普通科2学級,農業科1学級増募
39.4.1 定時制分校の生徒募集停止
40.3.31 定時制 浦里・塩田・傍陽分校廃止
41.4.1 農業科1学級を減じ、家政科1学級を設置
44.3.31 定時制課程廃止
47.4.1 農業科・林業科・家政科生徒募集停止、普通科3学級増募
49.3.31 農業科・林業科・家政科廃止
49.4.1 全日制課程普通科の長野県上田東高等学校となる。

教育課程

創立時の教育課程(『上田東高校百年誌』平成3年 65p

 明治25年の学校創立に先立って、県下各地で蚕業講習会が行われていた。三吉米熊が県職員として自ら企画実施した講習会も行われた。そうした経験やヨーロッパでの調査を踏まえて、蚕業学校の開校の際に示された教育課程が左図(上田東高校百年誌)であった。

 教育内容は次第に改善され充実していった。明治34年の『第8回小県蚕業学校事蹟報告』の「学校録事」のうち「小県蚕業学校校則」第2章(181-183p)は教育課程にあてられ次のような記載がある。
 学科目は本科では
学理」が次の10科目、
 1修身 2読書、作文及習字 3算術 4理科 5蚕体解剖、生理及病理 6養蚕及製種 7製糸 8桑樹栽培 9農業大意 10経済
実修」が次の6科目
 1顕微鏡使用法 2蚕体解剖術 3養蚕術 4製種法附護種法 5顕微鏡的蚕卵蛹蛾検査法 6桑園実修
別科では
「学理」は4科目
 1蚕体解剖生理及病理 2養蚕術及製種 3桑樹栽培法附病虫害 4肥料及土壌論大意
「実修」は本科と同じ6科目だった。
 1顕微鏡使用法 2蚕体解剖術 3 養蚕術 4製種法附護種法 5顕微鏡的蚕卵蛹蛾検査法 6桑園実修
 
 また学年は本科では8月に始まり翌年7月まで、別科では10月から7月まで、それぞれ教育内容によって、前後期の2期に分かれていた。
各学期の内容は、本科では前期が学理で8月から翌年4月 後期が実修で5月から7月まで
別科では、前期学理10月から翌年4月 後期実修5月から7月まで、となっている。実修期間中は学則に「休業せざることあるべし」と書かれ、休業日は殆どなく蚕の世話に明け暮れた様子であった。

小県蚕業学校と地域

 『小県蚕業学校十六年要報』巻末の「学校録事」に、創立から明治41年までのさまざまな資料が載っている。次は、本科、別科の入学者数等統計と、学校への視察者数(明治31年以前は記載なし)一覧である。他府県からの注目を集めていることがよくわかる。女生徒はいなかったが、女性の視察者が多いことが注目される。
 
 保科百助五無斉 明治元-44年、立科町生、長野師範学校卒、明治28-32年武石小学校長)は、保護者宛の学校新聞を自ら執筆印刷し、学問の必要性と進学を強く説いた。
 「子供を尋常小学校へ出すことは、恐れ多くも、勅令で定めてある、義務教育と申すもので、おとつさんや、兄さんがたは、たとひ寒中に単物を着、三度の食は、二度に減らしても、是非共為さなければならない役目であります、四月一日から、武石尋常小学校では、生徒に、筆や、墨や、紙や、石筆までも、みんな貸すことになりました、極都合の悪い人には、石盤や、硯や算盤までも、貸して上げたり、授業料は取らないことになりました。
 尋常科を卒業したものは、沖の高等学校(高等小学校)へお出しなさい、今年高等学校では、千三百円許りつかひますが、生徒一人で、一寸拾円許りかゝる訳であります、若しお出しなさらぬと、拾円宛の金を、貰ひそこなつたと言ふものであります
 高等学校を卒業したもので、惣領子息なら成る可く、蚕業学校へお出しなさい、蚕業学校には、本科と別科とあリますが、・・・・、どうしても我国は、蚕業地ですから、蚕業学校は必要であります、・・・
(武石学校新聞 明治31年3月26日発行 編輯人:保科百助 印刷所:上田町中沢活版所)(須藤實『にぎりぎん式教育論 五無斎保科百助その思想と生涯』1987年銀河書房 より)

 教育も実業も時代の要請ではあったが、保科百助のことばと行動には時代を突き抜けていくような勢いが感じられる。

十六年要報
十六年要報




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