蚕都上田アーカイブ・・・・・・120年前の講義が甦る、小県蚕業学校長 三吉米熊講義『外国養蚕術』他『蚕体生理学』『蚕体病理学』『桑樹栽培法』他

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市街地の形成と発展

昭和6年上田市街案内図

 『長野県北信交通明細図』(昭和6年3月、著作人馬場一 発行人馬場亀松)より「上田市街図」の部分。
 全体は縦54cm、横79cm、表の面は、この上田市街図のほかに「菅平スキー場案内図」「小諸町市街之図」「丸子町明細図」「別所温泉明細図」、最も広い部分を占めるのは、飯山線の宮野原から信越線関山・軽井沢、小海線小諸から小海及びその先の山梨県境までの弧状に伸びる北信から東信の上に群馬県草津温泉や長野原が位置するように描かれた小縮尺の図。こういう配置の地図は現在では描かれない。軽井沢から飯山までの鉄道が描く半円の中心は、群馬県の大笹、嬬恋のあたりになる。昭和初年?まではこういう地図が売られていた。裏面は軽井沢から長野までの商店の広告案内になっている。

『長野県北信交通明細図(部分)』(昭和6年)から
昭和6年『長野県北信交通明細図』より

 上田市 1947年8月アメリカ軍撮影(国土地理院) 
1947年8月アメリカ軍撮影の空中写真、国土地理院
 1947年上田市の航空写真。
 昭和22年の夏、市街地はまだ狭く、昭和初期と殆ど変わらない。郊外には水田が広がり、信州大学繊維学部(蚕糸専門学校)、上田蚕種、小県蚕業学校(現上田東高校)、東小学校、上田染谷ヶ丘高校の間の土地は水田だった。
 西部の秋和、上塩尻、下塩尻の集落も境界ははっきりしている。郊外に集落は点在している。
 千曲川河岸、山麓の斜面には桑畑が存在する。

経済と財政

under costruction

大正デモクラシー

上田自由大学

土田杏村全集 外函

土田麦僊 表紙見返し 麦僊は杏村の兄
 「土田さんは、・・・・系統的且つ組織的な民衆教育機関の必要と其の可能性を熱心に説かれた。僕等は異常な感激を以てこれを聞き、そして同志を語らってこれが実現を企てた。信濃自由大学(後に上田自由大学)はこうして生まれたのである」(猪坂直一「土田さんと自由大学」『全集第8巻附録小冊子「紫野より」第8号』昭和10年所収)


 大正10年11月、第1回の上田自由大学が開催された。毎月1回、4月までの計6回。各回の講座は大学のおよそ1年分の講義内容に相当し、毎回5~7日間毎夜遅くまで講義は行われた。講師は京都大学の土田杏村をはじめ新進気鋭の研究者たちだった。運営は、講師陣の要の土田杏村、上田神川村の山越脩蔵と金井正(二人とも蚕種製造業を営む裕福な農家だった)及び猪坂直一(文筆家で雑誌『蚕業評論』の編集者)の4人が理事担当、特に猪坂は専務理事として会計やその他事務的な仕事を取り仕切った。

 上田自由大学は、農村青年、教員など、年齢職業にかかわらず様々な人が聴講した。第1回は、11月恒藤恭の「法律哲学」、12月高倉輝「文学論」、1月出隆「哲学史」、2月杏村の「哲学概論」、3月世良寿夫「倫理学」、4月大脇儀一「心理学」、これが大正10年から11年の題目と講師。

 毎回熱心にノートをとっていた聴講者の一人に、上田市会議長の勝俣英吉郎がいた。大正13年に上田市の第2代の市長になってからは出席も少なかったが、自由大学に市役所の一室を貸してくれたり、市営グランドの設置、図書館の充実等、文化施設に熱意を傾けた特色ある市長だった、と猪坂は回想している。(猪坂直一『枯れた二枝-信濃黎明会と上田自由大学』1967年)
 勝俣英吉郎は、昭和5年亡くなるまで市長の職にあって、陸上競技場やテニスコート、野球場等の建設、市内道路花園線や住吉町の新設、丸子鉄道、上田温泉電車北東線の開通、児童遊園地や徴古館の設置など多くの事業を手掛け後世にその偉業を称えられている。
  
 「自由大学」は、毎回50人ほどの受講者の払う授業料によって維持されたが、経済状況は次第に悪化し、受講者も減り、運営が立ち行かなくなって1931年には活動を止めた。

 自由大学の開催された時期は、大正デモクラシーの時代だった。猪坂は同時期、普選運動を目指す「信濃黎明会」の専務理事も務め、会社をこの事務所にあて、自宅を『自由大学』の事務所として使ったという。二つとも途中で潰えた運動だったが、猪坂は「自由大学」を諦めたことはなかったと書いている。
 「自由大学の主張する《学ぶ者自らの大学》は永遠であるべきであり、《生活とともにある大学》は不朽の教育理想であると確信する。」(同上)

自由画と農民美術

 山本鼎(明治15年ー昭和21年、岡崎の出身)は、神川村大屋(現上田市)に医院を開業した父親に従って、16歳のとき上田に移住した。木版工房での修業に飽き足らず、東京美術学校に学び、その後フランスに留学した。
 大正5年、ロシアを経て帰国する旅の途中、児童画と農民の工芸に触れ、芸術観を新たにした。
 帰国後、鼎は神川村の金井正とともに、児童自由画運動を起こし、大正8年8月には、小県郡神川小学校で第1回児童自由画展覧会を開いた。この展覧会は大きな反響を巻き起こし、子どもの自由や個性を尊重するという美術教育革新の全国的な運動に発展した。
 また、同じ年12月、二人は、神川小学校に農民美術練習所を開設、練習所は金井正の蚕室から、農民美術練習所に移り、12年には農民美術研究所として大屋に新築された。作品製作は、冬の農閑期の仕事から、農村の民芸品運動として拡大し、実用品から装飾品まで、多種多様な作品が創意と工夫によって誕生した。昭和42(1962)年上田城跡公園に山本鼎記念館がつくられている。

上田獅子 木製、径24cm、作成時期不明
木皿 長径14cm短径11cm、作成時期不明

 農民美術作品、左は上田獅子の意匠による、木製の飾り皿、直径24cm。右は小ぶりの木製皿、赤ん坊、上田獅子の獅子頭(シシガシラ)。戦後の作品?。上田獅子はよく使われる意匠だが、作者の個性がある。





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